エッセイ
四つのツェッペリン博物館と
アルミのピアノ
平成25年11月1日掲載
吉田 英雄
株式会社UACJ
術開発研究所
顧問
1.はじめに
ドイツには四つのツェッペリン博物館があることを小前ひろみ著「とってもドイツ博物館めぐり」(東京書籍,2000年)で知った。昨年から今年にかけて,アルトピアという雑誌に12回の連載で「超々ジュラルミンと零戦」という記事を執筆していたが,超々ジュラルミンを語る前にジュラルミンあるいは超ジュラルミンとは何なのかを読者に明らかにしておく必要があった。このジュラルミンが開発されて最初に用いられたのがツェッペリン飛行船である。第一次世界大戦の時,海軍からロンドン近郊で墜落したツェッペリン飛行船の骨材の分析依頼が住友になされ,その結果を基に日本でもジュラルミンを製造するようになった。その骨材の一部(図1)が旧住友軽金属,現在のUACJ技術開発研究所(名古屋センター)に大事に保管されている。ツェッペリン飛行船の残材は旧住友軽金属のアイデンティティを示すものでもあった。
しかしながら,ツェッペリン飛行船についてはあまり詳しくはなかったので,国内外の文献やネットを中心に調べることにした。最近の本では牧野光雄著「飛行船の歴史と技術」(成山堂書店,2010年)がコンパクトながらよくまとまって書かれている。この本の中で,ツェッペリン飛行船LZ5から骨組みの材料にジュラルミンが用いられたとある(p.43)。LZ5はLZ4とほぼ同時期に作られているので1908-1909年頃と考えられる。先の原稿を執筆する際は,ジュラルミンがまだ工場試作の段階でも飛行船に使用することもあるかもしれないと思っていたのでそのまま引用したが,これは本当に正しいのかどうか疑問に思っていた。ジュラルミンの開発の歴史からみると,1906年にウィルムにより時効硬化現象が発見され,1908年デュレナ・メタルヴェルケ社でのジュラルミン板の工場試作が行われた。1909年ウィルムとデュレナ・メタルヴェルケ社の間でこの新製品に対する商品名の相談があり,ウィルムは当初ハルトアルミニウム(Hartaluminium)を提案したが,国際市場を考え,フランス語で硬いという意味のDurを用いてDuraluminにしたと言われている。1910年,デュレナ・メタルヴェルケ社はジュラルミンを12.75トン生産したが,そのうち10トンをヴィッカース社に供給した。英国のヴィッカース社(Vickers Company, その後The Vickers Sons & Maxim Ltd.)は1909年,剛性の高い英海軍飛行船 ”Mayfly” の建造を開始したばかりであった。
ドイツではフェルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵によって,飛行船建造を目的として,1898年飛行船建造会社が設立された。ツェッペリンの飛行船の構造は従来のエンベロープに水素を詰める軟式飛行船ではなく,金属で骨組みを作り,外皮(麻布か木綿布)で覆ってその中に水素ガスを詰めたガス嚢を数個並べるといった硬式飛行船であった。船体の骨組みは鉄で作るつもりだったが,重くなることが懸念され,アルミニウムが用いられた。種々の困難を乗り越えて,1900年6月,全長128m,直径11.65mのツェッペリン第一号硬式飛行船LZ1(図2)が完成した。
組み立てはフリードリッヒスハーフェン (Friedrichshafen) に近いボーデン湖(Bodensee)上に浮かぶ格納庫で行われた。このLZ1は不幸にも400m上昇し,15分ほどボーデン湖上を飛び回ったところで,異常が生じ,船体が折れ曲がり墜落した。この失敗で,「狂人伯爵」とまで陰口をたたかれたが,それにめげることなく,1905年LZ2を建造した。そのころ皇帝は自国の海軍がイギリス海軍に遅れを取っていることに懸念を抱き,空飛ぶ戦艦ともいえるツェッペリン飛行船に期待をかけて国費を投じることを決め,1906年LZ3,1908年LZ4が建造された。これらの飛行船の成功とともにツェッペリン伯爵は一躍「国民的英雄」となった。1908年9月,飛行船建造会社「ツェッペリン飛行船有限会社」をフリードリッヒスハーフェンに設立し,この新会社で最初に作られたのがLZ5であった。牧野氏によるとこのLZ5の骨組みにジュラルミンが初めて用いられたことになる。先ほど述べたように1908年には試作材が出来たばかりである。合金の名前も決まっていない段階である。素材もどのように製造したのであろうか。また,1900年にできたLZ1に用いられたアルミニウムはどのような合金であったのであろうか,非常に興味があるところだ。このような疑問を抱きながら,何か資料があるかもしれないと思い,現地現物主義でとりあえずドイツに行くことにした。ドイツにはツェッペリン博物館があることは知っていたが,最初に紹介した本には4つあることがわかった。一応,ネットで詳細な場所などを確認して,すべてまわろうとしたが,北の方にある博物館だけは時間の関係でいくことが出来なかった。
2.フリードリッヒスハーフェンのツェッペリン博物館
2012年10月7日(日),セントレアからルフトハンザでフランクフルトに,フランクフルトで一泊し,翌日ミュンヘンに同じくルフトハンザで行ったが,結構遅れて飛び立ったので予定より一時間以上遅くなった。ジャーマンレイルパスを持っていたので鉄道の方がよかったかもしれない。新市庁舎地下で昼食をとった後,壮大なレジデンツを訪ねた。当初の予定ではもっと多くの博物館を見学する予定であったが,レジデンスが大きすぎて他に行くことは無理だとわかった。ミュンヘンは10月8日までオクトーバーフェストで,その最終日に当たっていてネットでの安いホテルの確保が難しかった。何とかホテルは予約したものの,価格の割に小さなホテルだったので現地で探すのに苦労した。翌日9日雨の中,訪ねたドイツ博物館も壮大でさすがに技術立国らしく古代から最新の技術までわかりやすく展示されていた。とても一日ではまわりきれないくらいで,日本の科学館など展示においても到底及ばないと思われた。午後,鉄道でスイスとの国境にあるボーデン湖畔にあるフリードリッヒスハーフェンに向かった。ここに目指す第一のツェッペリン博物館がある。宿泊先のホテルにスーツケースを預け,駅前のZeppelin Museum Friedrichshafenに向かった。入り口にはツェッペリンを模したモニュメント(図3)があった。後ろからみると子供の滑り台になっていた。 博物館内部に入ると,骨格の部材の残材(図4)やマイバッハのエンジンを搭載したゴンドラとプロペラの残骸(図5)が並べられていた。骨材の残骸は住友で保管されていたものと同じであった。さらに行くと当時の骨格の加工技術(図6)や飛行船の実物大の断面や客室(図7)が展示されていた。骨格は板のロールフォーミングで成形し,リベットで結合していることがわかった。板厚は1mm以下で,弊社に残されている骨材も約0.5mm程度である。また重量軽減のため丸く打ち抜いている。客室も相当広く,食堂,ベッドやトイレも完備されていた。水素ガスを詰めていた気嚢,これは木綿布の素地の内側にゴムを薄く塗り,その上にゴールド・ビータース・スキンを特殊なニカワで1重または2重に貼った物で,このゴールド・ビータース・スキンは牛の盲腸を切り開いて加工したもので,16個のガス嚢を持った英国のR101飛行船では15万枚も必要としたと牧野氏は書いている。是非これを見てみたいと思ったが,残存していないとのことであった。ここのショップで数冊の本と土産ものを買い,ホテルに戻った。外の天気は曇りがちで晴れていれば,対岸のアルプスが拝めたのにと思った。
図3 博物館入り口とその前にあるモニュメント
図4 飛行船骨材の残骸
図5 マイバッハVL2型水冷V型12気筒エンジン搭載したゴンドラとプロペラ
図6 骨材の製造工程とロールフォーミングやリベット止めの治具
図7 飛行船の実物大の断面と客室
3.メアスブルグのツェッペリン博物館
翌朝10日,曇りがちで時々小雨が降る天気の中,フリードリッヒスハーフェンからメアスブルグ(Meersburg)までバスで行き,30分ほどで着いた。メアスブルグは湖上に面した古城を中心に観光地となっているが,バスを降りて,道がわかりにくかったので,行く先々でツェッペリン博物館までの道を聞いたが,ほとんどの人が知らないとかもう潰れたよとの話を聞いて,大丈夫かなと思いながら,地図をたよりに古城まで行き着いた。古城の前の土産物店で聞いたら,その裏手が博物館になっていて,階段を上がった二階にあった(図8)。10時にはオープンと案内書にはあったので10時過ぎに行ったが閉まっていて,これは潰れたのかなと思っていたらしばらくして,あの小前氏の「博物館めぐり」に載っている「世話好きで熱血漢の」女性が現れ,店に案内してくれた。この店は日本人の訪問客が多いらしく,日本語のパンフレットも用意されていた。盛んに「ヤポン,ヤポン」と言ってツェッペリン号が日本に行った時の資料を示してくれました。しかしながら,ここは個人が経営する博物館で,個人的に収集した約一万点のコレクションがあるが,筆者の興味を引くものは少なかったので,時間の都合もあって,向かい側の古城に行くことにした。この古城の中には中世の生活品や武器などが数多く展示されていて,中世好きの家内は非常に喜んだ。相変わらず天気は回復せず,対岸のスイスもみえなかった(図9)。メアスブルグからフリードリッヒスハーフェンに戻り,黒い森(Schwarzwald)を通過したいために少し遠回りでオフェンバッハ,カールスルーエ経由でシュトゥットガルトに向かった。翌日11日は少し曇っていたが,ホーエンツォレルン城とハイデルベルグ城を楽しんだ。
図8 メアスブルグのツェッペリン博物館入口
図9 メアスブルグの旧城入口と旧城からみたボーデン湖畔の町並み
4.フランクフルトのツェッペリン博物館
12日シュトゥットガルトから鉄道でフランクフルトに向かい,第三のツェッペリン博物館に向かった。フランクフルト空港に近いツェッペリンハイムというところにある。フランクフルト空港は元々,ツェッペリンがフランクフルトにドイツ飛行船旅行会社(DELAG)を設立したところから始まる。社員のための住宅地を空港近くの森の中に作り,ツェッペリンハイムと名付けた。閑静な住宅地の中にツェッペリン博物館はあった(図10)。フランクフルト中央駅からローカル鉄道(Sバーン)で約15分,駅から徒歩15分程度で目的地の博物館に到着する。最初は方角があっているかどうか不安であったが,そのうちに標識があり安心する。館内は比較的こじんまりとしていて,展示物もあるが,写真による説明が多いと思った。本なども結構販売していたので買って帰った。
少し時間があったので,館内で流していたVTRを眺めていたら,飛行船の中に突然,ピアノが映っていて,黒くはなく銀光りしているように思え,巻き戻してみて再度確認し,動画をカメラに収めた。アルミニウムのピアノだと確信して戻って調べることとした。
この後,宿泊先のシュトゥットガルトに戻ろうとしてフランクフルト中央駅に行くと,シュトゥットガルト行きの列車が予定の時間になっても来ない。寒いホームで散々待たされた挙げ句,予定の列車が来ないとわかったのは3時間後で,仕方なくその後の他を経由した列車で帰った。この間,駅の案内板や駅員にいろいろ訪ねてもさっぱり了解を得ない。次のシュトゥットガルト行きの列車も来ない。ドイツ語だからひょっとすると聞き逃したのかもしれないが,電光掲示板には何も案内がなく,乗客が放置されることなど日本では考えられない。ドイツの鉄道は信頼できると思っていたのにとても残念だ。
図10 ツェッペリンハイムの鉄道駅とツェッペリン博物館
5.アルミニウム製ピアノ
さてホテルに戻って,アルミニウム製のピアノについてインターネットで調べると,
・Wikipediaでは「最初の年の運行期間中、ヒンデンブルクの音楽サロンには特別なアルミニウム製のブリュートナー・グランドピアノが置かれていた。そのピアノは航空機で使用された最初のピアノであり、ラジオで初めて「空中コンサート」を放送した。このピアノは重量を節減するため、最初のシーズンの後、取り外された。」とある。
・「ライプチヒのピアノメーカー、ブリュートナーが黄色の豚革で上張りした、重量わずか180キログラムの特別仕様のアルミニューム製グランドピアノが設置されていた。だが、搭載されたのは1936年5月、初の北米航行の際であった。ピアノを置く場所を確保するために4つの円卓が取り去られた。」(http://www.air-ship.info/Waibel31.html),
・「ライプチヒのピアノメーカー、ブリュートナーが飛行船「ヒンデンブルク」のために特別に調整した有名なアルミニューム製グランドピアノが初めて搭載され、同社の社長であるルドルフ・ブリュートナー=ヘスラーも乗客のなかに居た。航行中にドレスデンのピアニスト、フランツ・ワグナー教授がピアノの演奏会を行い、飛行船上からラジオ中継された。それは航空機上で行われた最初のピアノ演奏会であった。」(http://www.air-ship.info/Waibel41.html)(Barbara Waibel著 LZ 129 HINDENBURG) 海外ではホームページAirships: The Hindenburg and other Zeppelins http://www.airships.net/blog/hindenburg-piano が詳しく扱っている。同ホームページでのhttp://www.airships.net/blog/sound-hindenburg-aluminum-piano ではピアノの音も聴くことができることがわかった。帰ってから観たDVD映画「ヒンデンブルグ」(1975,ロバートワイズ監督)でもピアノを演奏してナチをからかっているシーンがある。 この時代のブリュートナーのアルミニウム製ピアノが現存しているかどうか詳らかではないが,日本でも山下工業所さんのアルミニウム製バイリンやチェロがあるくらいだから,アルミニウム製ピアノもトライしていただけるとうれしいなと思った。http://www.yamashita-kogyosho.com/hammered/violin.html
図11 ヒンデンブルグ号でのアルミニウム製ピアノ
6.おわりに
今回の旅行の目的は,ツェッペリンの飛行船にいつからジュラルミンが用いられたかであったかであるが,帰国後,旅行で収集した文献やAmazonで購入した文献を調べていると,古本で購入したスミソニアン国立航空宇宙博物館のフェローのP.W. BrooksのZeppelin: Rigid Airships 1893-1940, (Smithsonian Institution Press, 1992)の本の最後に,Notes(p.187)として,次のような記述があることがわかった。 「Schwarz(注,Zeppelinのコンペチター)はアルミニウム製造業者のCarl Bergから供給された純アルミニウム(un-alloyed aluminum)で二隻の飛行船を建造したと信じられていた。しかしながら,彼なら成分の不明なViktoria合金を用いたことはありそうだ。これに対し,Zeppelinは多分,Bergのアドバイスを受けて,硬い合金と時々言われている亜鉛アルミニウム合金(Zinc-Aluminium alloy)を採用した。Zeppelinはジュラルミンに変える1914年まではどうもこの材料を用い続けたらしい。ジュラルミンというのは時効硬化型のアルミニウムで1908年ドイツのAlfred Wilmによって発見され,1909年の遅くには工業的に実用化された。当時のジュラルミンは同じ重さのアルミニウムに比べて2.5〜5倍の強度を持っていた。1910年当時,飛行船の桁に必要な断面形状を製造することが困難で,当初,Zeppelinはこのため採用を拒否したが,Vickersによって飛行船Mayflyに採用された。1914年までにジュラルミン部品が許容可能なレベルになり,代替案として考えられていたマグネシウム合金より優れていたことが証明された.1920年代の初期,ある段階ではWolfraniumやアルミニウム・タングステン合金がジュラルミンと同じ特性を持っていて採用可能と考えられていたが,ジュラルミンの方が形状がさらに改良され硬式飛行船に続けて用いられることとなった。」
ここで述べている亜鉛アルミニウム合金というのは亜鉛20%程度含んだ合金あるいはさらに銅を含むアルミニウム合金のことである(R.J. Anderson: The Metallurgy of Aluminium and Aluminium Alloys, Henry Carey Baird & Co,, Inc, 1925, p.266)。なお,ツェッペリンの一号機LZ1には純アルミニウムを用いられたと言っているサイトもある(http://en.wikipedia.org/wiki/Carl_Berg_%28airship_builder%29)。
参考までに,Brooksの本のAppendix 5に使用された合金を記した表があったので,図12に示す。
図12 ツェッペリン飛行船の特性(拡大した表(PDFファイル)はこちら)
以上のように1914年のLZ26からジュラルミンが使われたというのが正しそうである。この点,「飛行船の歴史と技術」で1908年のLZ5が最初だと書かれた牧野光雄先生にお聞きしたいと思い出版社に取り次いでもらおうと電話したところ,昨年10月に逝去されたとのこと,もっと早く確認をすればよかったと後悔するばかりである。さて,最後の第4のツェッペリン博物館,ノルトホルツ・アエロノーティクムは北のノルトホルツNordholzというところにあるそうだ。小前氏によるとここは軍用ツェッペリンの母港であったばかりか軍用飛行船の工場の所在地だったそうで,ここから出撃してロンドンを空爆したとのこと。現在は隣が連邦国防海軍の航空基地になっているそうだ。ここの訪問は今後の楽しみに取っておこうと思っている。ただし体力があるうちに。