一般社団法人 軽金属学会

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エッセイ

島めぐり

平成21年11月6日掲載

本保 元次郎

千葉工業大学 工学部
教授

 
 先月の10月は、長崎大学で日本鋳造工学会の講演大会が開催されました。長崎は、私にとって初めて訪れる地で、以前からとても興味がありました。前回のエッセイ(9月9日版)を読まれた方はご存知のように、長崎港の沖合19kmには、世界遺産暫定リストに掲載された「端島(はしま)」、通称「軍艦島」として名前が通る有名な海底炭鉱の島があります。その異様な形、その歴史から一度は訪れてみたかった場所でした。ここで簡単に軍艦島の歴史をご紹介しますと、端島(軍艦島)は、草木も生えない小さな岩山からなる島であったそうです。ここでの石炭は1810年に発見され、佐賀藩が小規模な採炭を行っていました。1890年に三菱合資会社(後の三菱石炭鉱業株式会社)の経営となり、翌年の1891年から本格的な採掘が始まっています。その後、83年間採炭が続けられ、1974年に閉山しています。その間、島のまわりを6回にわたって埋立てる形で、島の面積も3倍になったとのことです。その結果、島の形はまったく変わってしまい、いつしか軍艦のような形になり、軍艦島と呼ばれるようになったそうです。その後、35年間無人の島であり、一般人の立入りは禁止されていました。しかし、今年の1月より、人数は限られるのですが、1日2回短時間の上陸が認められるようになりました。
軍艦島の移り変り(軍艦島クルーズパンフレットより)
軍艦島の景色

 軍艦島クルーズは、長崎港ターミナルから出向し、伊王島や高島を経て約40分で島に到着します。当日は、風も穏やかで波のそれほど高くなかったので、観光船は軍艦島に接岸することができました。説明では、波が高かったり、風が強い時、特に西風の場合は、船が接岸できなくなることが多々あるとのことです。私の乗った船ももう少し波が高かったら、上陸せずに引き返すことになっただろうと話していました。島に上陸すると最初に見学にあたっての注意があり、危険なために決して見学通路以外の区域には立ち入らないことを、念を押されました。注意が終わると、新しく整備された見学通路に沿って順に第1見学広場から第2、第3見学広場へと説明を聞きながら移動していきました。見学広場から見える廃墟は、言葉では説明しにくい独特の雰囲気を醸し出していました。島の説明をしていただいた方は、昭和30年代にここで石炭を掘っていたそうで、軍艦島に来ると当時の炭鉱の苦労や島での生活が鮮明に思い出されるそうです。島の地下には、深さ600mの竪坑と2500mの片坑道があり最深部は海面下1100mにもおよぶそうです。坑内は30℃以上で湿度95%という悪条件での仕事は、今思い出しても過酷で危険なものだったそうです。仕事が終り坑道から出てくると、着ている服は汗の塩分と油で体に張り付き脱げないために、服を着たまま海水を湧かした風呂に入るとのことでした。また、この小さな島に5000人以上が生活していた当時は、とても賑やかであり、島にはほとんどの施設が整っていたとのことですが、唯一ないものが焼き場とお墓で、亡くなった方はすべて本土に送られたそうです。
 約30分間の短い上陸でした。島を離れる時、無人島になってから35年間、ただ荒波に耐えていた軍艦島を見ながら昔の盛衰を思ってみました。

今月(11月)に入り、下関を訪れる機会がありました。下関は、ご存知のように先月自衛艦「くらま」が韓国船に衝突し、話題となった関門海峡に面しています。泊まったホテルからは、関門海峡の対岸約800m先の門司に繋留されている「くらま」を見ることができ、肉眼でも船首が大きく捲れ上がっているのがわかります。なお、韓国船は自主航行ができるため、別の場所に移動したそうです。「くらま」を見学しに門司を訪ねた友人に聞きました所、一般岸壁に繋留された「くらま」の柵の前には、大勢の人が群がり、また付近の道路には違法駐車する車が多く、複数のパトカーが絶えず警告を出しながら走り回っていたとのことでした。また、船では迷惑そうな顔をした自衛官が警備にあたっていたそうです。そして、大きく焼けただれた「くらま」の船首を目の前にして事故の大きさを改めて痛感したそうです。

 下関には、私の訪れてみたかったもう一つの島、正式名称は「船島(ふなじま)」ですが、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘で有名な俗名「巌流島」があります。「巌流島」までは下関の観光船乗り場から船で10分と、思っていたより近くにありました。また、近い岸からですと200mくらいの距離になります。しかし関門海峡は潮の流れが速く、当日は時速6.3kmあり、速いときには時速10kmにも達するとのことです。また、場所により流れ方が違うため、潮の流れを読み間違えると大型船でも岸に衝突したりすることもあるそうです。

 さて、「巌流島」に上陸すると想像していたより平坦で広い島の印象を受けました。それもそのはずで、何回も埋立てが行われ現在では当時(17,000m2)の6倍の面積(103,000m2)まで大きくなっているとのことです。また、島の半分は三菱重工業株式会社 下関造船所の所有地で、造船資材などが積まれていました。
巌流島の決闘

 島の案内に沿ってたどっていくと、5分くらいで武蔵と小次郎の像が見えてきます。なお、当日は雨が強く降っていたため、びしょびしょになりながらの散策でした。その像の横には決闘場とされる砂浜があり、木の小舟が置かれています。これも、後になって二人の決闘場をイメージして造られた人工海浜だそうです。この後、明治43年に建てられた佐々木願流之碑を見て船に戻りました。帰りの船の乗客は私一人だけであり、雨に煙る巌流島を見ながら、当時の決闘を思いうかべていました。
 
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