エッセイ
ありとキリギリス
平成16年1月5日掲載
久保田 昌男
(株)アーレスティ
顧問
みなさん良くご存じのイソップ物語です。この寓話の結論はどのようになっていると思いますか? そして、皆さんはどの結論が好きですか?
1)ありはキリギリスをかわいそうに思って、家にいれて食べ物を恵んでやった。キリギリスはありに感謝して、夏の間遊び暮らした自分を反省した。
2)ありは「夏の間、遊んでいたのは自業自得だ」といって、にべもなく追い払った。キリギリスは飢えと寒さで死んでしまった。
3)キリギリスは「これではいかん」と思って得意の楽器で音楽会を開いた。あり達は食べ物で入場券を払って音楽を楽しんだ。
イソップはどの物語でも共通して、社会や国家を福祉のゆりかごのように考えて、これに頼るような生き方はできない。最後に頼りになるのは自分だけなのだから各自、知恵を絞って生きてゆけ。と教えています。
待てよ! そうすると、みんな良く知っている ①の結論は間違っているのだろうか? どうもそうらしい。
では、ほかの国の「ありとキリギリスはどうなっているのだろうか」というと、意外にも 2)の答えが多い。すなわち、自分の老後をちゃんと用意しておかなかったキリギリスを助けるのは、いいかげんな生きかたを認め、これを助長することになるわけで、子供の時からここのところをちゃんと教えておく必要があるというわけです。
しかし、経済倫理学の立場からすると、すなわちこの物語に損得の勘定を入れて論評すると、どちらの結論もあまりほめたものではありません。歌と楽器がうまいキリギリスは得意の楽器で演奏会をやってお金を稼げばよいし、消費者のありは稼いだお金を音楽を楽しむために使えばよいではないですか。こういった問題は自由市場における「交換の原理」が作用して(もしかしたら、神の見えざる手も働いて)解決されるでしょう。
私は昨年の暮れ、文京区民合唱団というところで尚美学園オーケストラのベートーベン第九交響曲に出演しました。すなわち、キリギリスになった。会社の人や友達がありになって聴きに来てくれました(食べ物のお菓子も、花ももらった)。
第九を初めて歌ったのは19才の時、2度目は45年後の昨年でした。19才の時の指揮者、小船幸次郎さんが「君たちは卒業して社会に出ると、まず第九に出演できることはないだろうから今しっかりやっておきなさい」と言われましたが、本当にその通りでした。
ところで、この間聞いた日本昔話に「猿嫁」というひどく残酷な話がありました。むかし、ある男がとても大変な畑作業を手伝ってくれた猿に娘を嫁にやる約束をした。娘は嫁にゆく日の朝、麦が一杯はいった甕を猿に背負ってもらい、自分は手に鏡を持ち、そしてひそかに小石をたもとに入れて猿にしたがった。大川の橋を渡っているとき、娘は小石を川に投げて「鏡を落としたので、ひろってくださいナ」と言った。猿は甕を背負ったまま川に入ったので、おぼれて死んでしまった。
猿は何も悪いことをしていないのに、殺されてしまってかわいそうだと思うかもしれないが、私は娘は優れもので猿知恵は遠くおよばないという感想もあると思いました。
イソップ物語の世界はまさに知恵を競うゲームの世界で、賢いものが成功し、または目的を達成し、愚かなものは失敗することが多い。しかし、「猿嫁」のような日本昔話にもイソップに共通するところがあっておもしろいと思いました。