エッセイ
初めてのことは楽しいことだ
――創造の楽しみ――
平成15年7月1日掲載
本村 貢
早稲田大学理工学部
教授
リレーエッセイもすでに9回を数えるほどになりました。企業の方と大学の先生を交互にお願いしてきましたが、十分楽しんで読んでいただいているものと、企画者として喜んでおります。どなたのエッセイが一番楽しく、印象に残った読み物でしたか。私としても色々と教えられ、考えさせられました。これからも続きますので楽しみにしてください。
2年間広報委員長を勤めさせていただきました。前任の総務委員長として学会の大きな改革の基礎を作ったので、理事を辞められると思っていたのですが、会長から広報で収入増を考えてくださいと白羽の矢が当てられてしまいました。それまでは、年2回ほど開けばよいような委員会でしたが、卑しくも委員長に任じられたので、旧委員半数と新委員を入れて第一回を開き、戦略としてホームページの大改定を検討しました。以後2年間で14回位の委員会を重ねてきました。IT時代に即した学会のHPとは何かを皆で考え、斬新性を出すとともに、学会員に役立つことは等を考え、事務職員の事務量の削減への無駄の排除(HPからの各種申し込み)、会員同士の密接な連絡機能の達成(行事予告の早期伝達、情報のオープン化、各種活動の公開)、学会財政の健全なあり方(一般広告とバナー広告)、維持会員へのサービスと宣伝(1行広告、バナー広告)、一般人へのアルミニウムの啓蒙(質問コーナーの公開)等を心がけました。ただただ任された委員長の仕事をしているうちに、委員の方々、事務員の木村さんと強力なアルバイト学生のおかげで、いつの間にかHPができてしまいました。2002年11月にHPを新オープンし、以後アクセス量が急激に増え、今約25、000件を数えるにいたりました。これを読んでいただいている人が、またその数に貢献しております。皆様も自分の学会へ積極的な情報発信をしてみたらいかがでしょうか。
今日本、世界、企業、大学、学会は色々と過渡期を迎えております。皆に喜んでもらえて役に立つ新しいことを皆様でやっていきましょう。
私は、大学で加工工学、もの造り工学、創造工学の研究と教育をしている新しいもの大好き人間です。
私立世田谷学園中学校(永平寺、総持寺、駒澤大学の下の中高一貫教育校)は坊様学校で、校則の1つは坊主刈りでした。入学式のとき校則により坊主にしろと先生に言われたが、形が悪いので坊主刈りだけは許してくださいと校長先生にお願いしたところなぜか許可され、初めて髪を伸ばしていいことになり、それ以後約100年の校風・規則だった坊主刈りは廃止され今日に至っている。また、3年生の折、新任の担任先生(他校受験禁止の校則を知らなかった)に薦められるままに都立新宿高校を受験することになったが、受験2週間位前にそのことが中学で問題になり、その先生が自宅にまで来て受験辞退をしてくれと言われた。受験勉強もしていなかったので、「落ちると思いますので受けるだけは受けさせてください」と頼み、合格してしまった。これが学校始まって以来の外部進学になってしまった。先生には悪いことをしてしまった。
新宿高校では、1年生のときから応援部を創設し、初代部長となり3年間部長を続けた。今でも年1回の同学年全員の同期会七夕会をやっている結束の強い学年である。
早稲田大学2年生のとき塑性加工の雑誌を書店で初めて見て取り憑かれ、松浦ゼミの門をたたき、3年生のとき学会のシンポジウムに初めて出席した。コンピュータ同好会を理工学部に数学科、物理学科の友人を誘って初めて作り、幹事として当時できたてほやほやの富士通(100m2位の事務所しかなかったと記憶している)の課長さんにコンピュータの原理を色々教わった。3年生のとき、理工展に参加し、分野に分かれて展示を企画し、発電機の仕組みを担当し、責任者として東芝さんと折衝し、75万Kw(?)のタービンの模型を借りて展示を行ったが、その見張りをしていた11月23日早朝ラジオでケネディー大統領暗殺の報に触れ、初めての衝撃を受けた。松浦研の修士1年の時から、先生のかばん持ちで鉄鋼協会圧延理論分科会に出席させていただき、共同研究だった落槌試験の変形抵抗の結果を持って何度も発表したり、小生が趣味でまとめた初の圧延理論式集(30位の圧延理論の式の誘導とそのまとめたもので、その後の圧延理論の誘導バイブルとして使われた)を鉄鋼各社に配布させていただいた。各社の方々から貴重な資料だとほめられ嬉しく感じ、自信を得たものでした。学問で初めて人に喜びを与えることで自信が出ることを実感いたしました。修士2年の秋塑性加工学会で初めて学会発表をさせていただいたが、目の前に圧延の大家の東大鈴木先生がおられ、初めて震えを感じました。発表後の先生のキツイ質問には何時しか震えも忘れ、恐れおおくも圧延の大家に初めて反論・議論をしたものでした。また、川鉄に入社したかったので、大学3年の時入社案内要綱を取り寄せた。しかし、魔の文章を見た。「色弱は入社お断り」。即「色盲と色弱は違うのです。色弱は許可してください」と手紙を書き、翌年の入社案内から色弱の言葉が色盲に変わっていた。それでも入社試験では、特別色盲検査をされ苦労したが、何とか入社できました。友人の父親の医者から色盲検査の代表例を3冊借りてすべて暗記して、堂々と検査に望んだが、意地悪にも普段使われそうにもない色盲表が出てきて、初めて試験で汗びっしょりになって何も答えられなかった。
川鉄新入社員4月の研修の折、配布されていた資料や本の問題は入社前にすべて読み、問題を解いていったので講義ではひまを持て余していた。皆も夜は時間をもてあまして飲みに行ったりしていたので、早稲田の後輩に相談を持ち掛け、ダンスパーティーを企画した。2晩ほどで企画書を作り、人事課の先輩課長に頼み込んで、体育館の1日借用とコピー機(当時は大変貴重なもの、文献等は写真印刷だった)を無料借用しパーティー券を印刷し、東大や京大の同期に三宮駅前で配布させ、ダンスパーティーを盛況に実行した。あとでこんな新入社員は初めてで、前代未聞だと会社の先輩に言われた。ただ、新入社員も、多く参加してくれた神戸の見知らぬ女性たちも皆喜んでくれたのがうれしかった。川鉄での仕事は、大学で圧延の理論を研究していたおかげで楽であったし、新入社員としては初めて「圧延理論とその応用」(中川課長が鉄鋼協会圧延理論部会から引き受けてきた)の第6章を1週間で執筆させられた。
大学に戻ってきた助手1年目の昭和44年1月に過労なのか足の痺れ(その後今日まで原因不明の持病となる)で体を壊して3日ほど床に伏せていたが、頭と手は使えたので、経済雑誌「エクゼクティブ」に投稿したら、「70年代のビジネスマン像―多様性を認識した効率的融合を実現していく行動的ビジネスマンの出現―」で入選してしまった。専門以外の雑誌に初めて私の名前が載った。送られてきた雑誌を見て、工学系は私一人で他は、そうそうたる企業のサラリーマンの中堅どころで、震えが来たほどでした。このときの考えは今でも基本となっております。
日本機械学会の一例。29歳(32年前)の時葉山委員長の下で塑性加工連合講演会の委員(機械学会側として)を初めて務めさせて頂いた。横浜の開港記念会館を借りて、講演会(担当吉井先生)、初めての機器展示会(担当本村)(前夜から配線を自分たちでやり、収入のほとんどを懇親会の若手参加費の補助に使用)、参加聴講料の学会初めての徴収(担当本村)(聴講する人にもメリットがあるので、情報には金を支払ってもらうべきではと葉山先生を説得し、先生の英断で実行に移された)、鏡割りでの盛大な懇親会(担当西村先生)等を初めて経験させてもらった。聴講料制度の導入は、当時としては画期的であったが、以後ほとんどの学会がそれをみならった。
昭和62年機械学会企画運営部会金属加工委員会委員長に就任し、翌年も委員長をし材料加工委員会に改名し、その後の機械材料・材料加工部門(M&P)への以降をスムースにした。その一例が、機械学会が塑性加工連合講演会の企画・準備からすべて手を引いて、すべて塑性加工学会で行う事を両学会に初めて認めてもらい、塑性加工学会講演会の真の独立性と、機械学会のその後の部門制への移行の準備が実現できた。
留学の一例。当時は学内選考が厳しく、先輩が数度落ちていた。再度落ちることを覚悟で、先輩が申請すべきではと相談したが、少し申請を控えて数年後に出そうといわれた。「落ちてもともと、継続こそ宝なり」で、ダミーで私が出したら当たってしまった(その後毎年学科内の教員が留学できるようになった)。論功行賞もない初めての若手の留学になってしまった。英国ではスーパーバイザーのRow教授に大変よくしてもらい、大きな一室と秘書の使用を認められていた。新聞に載った日本文化の間違いを教授に話したところ、それでは新聞社の記者を呼ぶので訂正してみたらと言われ、1週間後に記者が美しいKim嬢をつれて取材に来た。2日後に日本文化について英国の新聞にKim嬢と私の写真が紙面半分に大きく初めて載った。一方日本では留学中の私の教授昇格が会議にで、「昇格予定者が国外にいた例がないので至急帰って来い。」と恩師松浦先生から連絡を受けたが、「研究途中なので今帰国できません。お許しください。昇格は遅れても結構です。」とご返事したが、早稲田大学初めての留学中での教授昇格となった。松浦先生には大変ご迷惑をおかけしてしまった。そんな恩師の松浦佑次先生には大変よくしていただいた。パーティー好きの小生は、毎年の松浦研の旅行会、卒業生会、先生の銀婚式、還暦、退職のお祝いをいつも企画し盛大に開催してきたが、最後に先生の死の直前2時間前に奥様とご一緒の見舞いやお葬式の準備から進行係を勤めさせていただく羽目になってしまった。
塑性加工学会の一例。宮川先生・工藤先生たちとの約束の会員増強作戦(1人40名増員作戦)の実行、学会初のビデオ製作等々枚挙に暇がございません。33歳の折、学会に圧延関係の分科会がないのは片手落ちだと考え、木原講師、阿高助手と相談し、圧延工学分科会設立を画策した。もちろん主査は鈴木先生で、それをお頼みに行くのを誰にするかで問題になった。先輩の木原先生は五弓研なので辞退、阿高先生は直属で鈴木先生が怖いので辞退となり、必然的に本村が先生に面会し、30分で快くお引き受けいただき、3ヶ月の準備期間で昭和50年4月に正式発足した。しかし以後10年位鉄鋼協会から随分と反論されたのがつらかった。爾来、鈴木先生主査、戸沢先生主査の下で16年間幹事を勤めさせていただき、勉強させていただいた。一方、研究者の楽しみは学会発表である。しかもその講演会で地方に行き見聞するのも楽しみの1つである。そこで沖縄大会(昭和59年5月)を思いついた。研究者・発表者が普段のご苦労の疲れを癒すことができ、少しでも気分転換で旅行気分を与えることができ、普段孝行がしたくてもできにくい奥様方への感謝を含めた初企画をした。めちゃ安航空券、奥様方50名参加、数年間越えられることがなかった発表件数203件で講演会は黒字で大成功だった。
軽金属学会の一例。雄谷副会長が研究委員会を創設するとき、「金を集めるから、本村は塑性加工関係の部会を作れ」と相談された。というよりご下命があった。35歳のときだった。鋳造は神尾先生、表面処理は中川様にお願いするから、本村は塑性加工関係の何か部会を作れとのご下命だった。プレス関係は友人でもあり、先輩で、塑性加工学会で共に仕事をしていた都立大の西村先生に学会に入会してもらいプレス関連の部会長をお願いし、私は圧延、押出し、鍛造の3部門を統括する金属加工部門の初めての部会長になった。昭和52年9月であった。部会長を約9年続けてしまった。当時閉鎖的だった圧延部門の委員に係長、課長クラスを配したが、1年間発言が少なく、かつ他社の状況を偵察するようなお通夜の委員会が続いたが、委員会での指名発言、頻繁な飲み会が功を奏し、いつの間にか皆が情報交換するようになり、電話一本の連絡網ができ、企業間製品の融通などもお互いスムースに行くようになり、職員の井波さんの努力に助けられ表面欠陥分類や各社圧延設備一覧などの初の画期的な仕事をし、研究委員会としての役割を十二分に果たした。今は次世代の人たちが活躍しているが、OB会(写真)は今も続いている。
アルミニウム協会の根本専務理事に呼ばれ、アルミ精錬も日本になくなってしまうので、協会の収入源確保を含めて何か企画をしてくれと言われた。当時結束が弱く、前記鍛造分科会で主査を頼んでいた昭和電工の関口氏が動かず開店休業だった鍛造部門を強化することで了解を得た。約1ヶ月間かけて日本中の鍛造会社20社ほどを回り(もちろん自費です)、各企業のトップに趣旨説明をして賛同を得、初めてアルミニウム鍛造委員会を昭和61年9月に発足させた。アルミニウム鍛造に日の目を与え、業界同士の情報交換、中小企業の技術力アップ、発表能力の喚起等をめざし、0円からの出発だったが、翌年200万円、その次400万円、倍々となり常時1400~1600万円の予算を維持して、真面目な職員の佐々木さんに教えられながら、11年間委員長として活発な委員会活動を続けた。学会の小山田記念賞や高橋記念賞を参考に、小さな委員会独自で初の鍛造技術賞を新設し、中小アルミ鍛造企業で本当に活動をしておられる方々を初めて表彰させていただいている。
根本専務理事と企画した富山でのご長老座談会では、出席者全員の年齢を足した語呂合わせの座談会名にし、富山での初めてのテレビ中継録画・北陸地区の新聞での宣伝をしていただいた。早稲田大学での学会講演会開催はもう数年前になりました。講演会発表件数も多く、日産、ホンダさまからの新車のカットも出るなどの展示、技術講演会も数件、カタログ・機器展示も盛況であった。ポスターセッションの景品は高価な時計等を初めて副賞として差し上げ若い方に喜ばれ、懇親会のビールはすべて寄付していただき、極力支出を省き、200万円の黒字を学会に納めた。もちろん、そのとき予算案の理事会提案、決算の理事会承認、詳細な経理報告書、マニュアルを財産として初めて残したと思っています。
最後に、中山名誉会長には大変懇意にしていただき、決まった所で年2回位会食をさせていただきました。新進賞設立には中山様は自己資金を寄付されましたが、それとは別に中山賞(仮名)を作りましょうと提案し、名誉会長も快くお受けくださり、日軽金の学会担当まで話が通って、ほぼ実現間じか迄行きました。残念ながらあと一歩で中山名誉会長は惜しまれる人となって遠い旅路に出てしまわれ、これは実現できなく、先生に申し訳なく思っております。
湯川秀樹博士の自分史的小説「旅人」にならってもっともっと研究や趣味のこと、共同研究や他の協会、企業との仕事等々も書きたかったのですが、紙面を大幅にオーバーして、とりとめもないことを順不同に書き綴ってきてしまいました。以上のように機会ある毎に多くの人にお会いでき、教えられ、新しいことを提案し・実行させていただき、恵まれた環境を体験してきました。さらに、研究室同期14名のうち1名を除いてすべての結婚式の司会、400回以上の結婚式(最近6年ほど前からは出席しないことに決めている)への臨席など、研究以外でも止め処もなく多くの人にお会いしてそのたびに1つ1つ勉強してまいりました。おかげで、多くの先輩や仕事仲間や卒業生やその関係者が、表立ってあるいは影となり、大学の研究や学生の教育の面で支援してくれておりますことは、感謝の念で耐えません。見よう見まねで、学生も個性を持って自発的な企画力で自分から物事を考え、行動し、責任を取っていく習慣に染まり、常に新しいことを提案・実行しているようです。今月も40年以上続いている小学校の恩師をお呼びしてのクラス会を企画し先生に喜んでいただいております。これからも人に感謝をし、人に喜びを与え、自分に自信を作りながら、愛と信頼と思いやりを持って、残り少ない大学教育・研究に専念し、学会・産業界の発展を見守っていきたく存じます。
最後に、これからは、奇数月(年)は若手(30代、40代)、偶数月(年)は理事やそれに準ずる方々等などとリレーエッセイが企画されると楽しくなると思います。もし若い方がこれを読まれておりましたら、「まあやってみることでしょう。必ず多くの方々に助けられるでしょう。報連相を忘れずに。」と申し上げたい。