エッセイ
カンを磨く
平成15年2月1日掲載
松尾 守
スカイアルミニウム株式会社 取締役
工場長
あの人はカンがいいとか発想がユニークだと言われる人がいる。同じデータから、ある人は変哲もない結論を得るのに対し、別の研究者は新しい現象を見いだすという例も良くある。つまり、見る人が見ると分かるという、センスの差である。ノーベル賞の田中さんの場合、鋭いカンにより失敗の実験を大発明に進化させた好例であろう。このセンスの差、カンの良い、悪いは、どこからくるのであろうか。「カンの構造」(中山正和著)によれば、記憶された断片的な関連情報を、瞬時にして関連づけて、体系的に繋げる能力といえるだろう。記憶には、論理的につながった線形の記憶と、それに付随する多くの周辺記憶があり、この周辺の記憶が有機的につながったときに、カンが働いた状態になり、優れた発想に結びつくとされる。
新しい仕事の場合、最初に色々と教育され、一通りは理解できたが、何かしっくり来ないという状態を経験された方も多いだろう。よく分からないまま、しばらく闇雲に、試行錯誤していると、ある時、「ははあ~こういうことか、なるほど、分かったぞ」ということになる。一見何の脈絡のない多くの情報が、ある閾値レベルまでに蓄積された時、それらの個々の記憶のチェーンがつながって、カンが働き始めたのである。
脳は、体の至る所から膨大な情報を受け取っており、これらが記憶として取り込まれているが、これらの記憶をどう活用しているのだろうか。上記「カンの構造」によれば、正常な状態の信号は、脳は無視して感じない。心臓の鼓動をいちいち感じていたら煩わしくてしょうがない。しかし、緊張して、鼓動に乱れが生じたときには心臓がドキドキしたと感じるのである。もちろん、正常時にも心臓はドキドキしている。ただ、脳が自覚しないのである。赤ちゃんが最初に歩き始めるとき、足の裏からは膨大な情報が脳に伝わっていると思われる。まだ、情報の蓄積がない訳であるから、すべての情報に反応しなければならない。おそらく脳はフル回転で歩行を行っていると思われる。やがて、歩行に関する情報が脳に一定レベル以上蓄積されると、正常に歩行している限りは、脳は足の裏からくる歩行時の膨大な情報に反応しなくなる。しかし、小石を踏んだり、滑ったりという異常時にのみ、脳は鋭く反応する。歩行はじめの頃は、どれが正常でどれが異常かもわからず脳は重点的な対応が出来ないためすぐに転んだりする。脳が経験した、膨大な歩行情報は、必ずしも系統的な物ではなく、多くの断片的な情報の積み上げであろう。しかし、歩くという目的を持って積み上げられた情報が一定以上たまると、記憶のチェーンがつながり、異常情報と正常情報が識別され、異常にのみ反応するようになる。すなわち、歩行に関するカンが働くようになる。
言い換えれば、カンが働く状態とは、多くの周辺記憶が蓄積され引き出せるようにつながった状態といえる。これは、素人では勘は働かないと言うことを意味する。よく、素人の方がユニークな発想をすると言われるが、例外を除き間違いである。旋盤のプロは、旋盤操作の作業手順を身につけているだけではなく、良い品物を作ろうという目的の元に膨大な周辺情報記憶を蓄積し、記憶のチェーンがつながっているので、動作のポイントに集中出来るのである。素人が旋盤作業をすれば、作業手順に従って、物は出来るであろうが、大変な神経を集中して、しかもろくな物は出来ない。
しかし、いくら周辺情報記憶が蓄積されても、問題意識、向上意欲のない場合、周辺記憶はつながらず、分かったという状態に至らない。
このように、勘が働くためには、論理的、系統的な記憶、一定以上の断片的周辺記憶、目的意識、向上意欲がそろう必要がある。
技術者、研究者に当てはめて考えると、系統的、論理的な学習だけではどうも優れた発想は生まれないようだ。一見脈絡のない雑多な周辺情報をいかに多く蓄積するかが重要で、しかもそれらの断片記憶が有機的結びつくためには、向上への強い意欲がベースになるようだ。その意味で、若い技術者研究者はいつか何かに役立つはずだとの信念で、どんな些細なことにも興味と集中心を持つことが、技術、研究のセンスを磨く上で重要である。自分の研究テーマではない検討依頼や相談、クレーム対応、種々の雑用を軽んじてはならないということである。向上心と興味を持ってこれらに向かい合うことがカンを磨き、発想を促すために重要だと思われる。